第1回 モンパルナスの灯
語り手:大江戸蔵三都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。
聞き手:豊島なぎさ都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。
貧困すら贅沢だ…
こんにちは、大江戸さん。文化部の豊島です。今度都内版で「池袋モンパルナス」っていう企画を始めるんですけど「そういう企画なら、まずは大江戸さんに聞いてこい」ってウチのデスクが言うもんですから、整理部の方へお邪魔したっていうワケです。それにしても、大江戸さんって変わった名前ですね。なんかの芸人みたい。
それは江戸屋猫八のことか?失礼なヤツだな。キミだって売れない演歌歌手みたいな名前じゃないか。ワタシはこう見えても忙しいんだよ。キミと付き合ってる時間なんかないの。さぁ、帰った、帰った。
まぁ、そう言わないで。タダでお話を聞こうなんて思ってませんよ。デスクが「蔵三さんの好みだから探してこい」って言われて、これを苦労して見つけてきたんですよ。
おおっ、これは「香露」の大吟醸じゃないの!熊本酒造研究所、協会9号酵母発祥の蔵だよ。いやぁ、これが飲みたかったんだよ。キミも生意気なだけかと思ったら、結構いいとこあるじゃないの。ところで、何を聞きたいんだっけ?
「池袋モンパルナス」っていうテーマです。大正の終わり頃から太平洋戦争終戦頃にかけて、西池袋、椎名町、千早町、長崎、南長崎、要町周辺にいくつものアトリエ村があり、若い芸術家達が暮らしていた…。
なにメモ読みながら言ってんだよ。だいたい「池袋モンパルナス」の「モンパルナス」ってどういう意味かわかってんのか?
知ってますよ。フランスのパリでしょ。卒業旅行で行ったパリのモンマルトル…。あれ?
だからさぁ、モンマルトルとモンパルナスは似てるけど違うんだよ。古い映画ファンなら知ってるんじゃなかな。名匠ジャック・ベッケル監督の「モンパルナスの灯」。モディリアーニを描いた佳作だ。ジェラール・フィリップのモディリアーニとアヌーク・エーメのジャンヌ、それにリノ・ヴァンチュラの画商、これが渋かったなぁ…。
ごめんなさい。ぜ〜んぜん知りません。フランスの俳優さんで知ってるのはどらえもんのジャン・レノだけ。
これだから若者とは話したくないんだよ。赤貧の上に結核を病むモディリアーニがふらふらになりながらモンパルナスのカフェにデッサンを売りに行くんだ。そして街頭でのたれ死ぬ。それを陰からこっそり見ていた画商が、何食わぬ顔で奥さんのジャンヌを訪ねて言うんだな「絵を買いたいのですが…」。何も知らないジャンヌは嬉しそうな顔で答えるんだ「夫が喜びますわ…」
ゲゲっ、死んだのを見届けてから絵を買いに行くの?えげつない話。
それがフランス映画のエスプリというものさ。「セ・ラ・ヴィ(それが人生)」ってなもんだよ。まぁそれはともかく、ここで注目したいのがモディリアーニがメチャクチャ貧乏だということ。
モディリアーニの絵って、何億円もするんでしょ。カフェで売っていたんだったら買った人はあとで大儲けしたでしょうね。ワタシだったら絶対買う。
キミのえげつなさも相当なもんだよ。19世紀の中頃に、パリは大規模な都市改造が行われるんだけど、この頃にはまだ田舎で家賃も安くてスケッチなんかもしやすかったモンマルトルに、ピサロのような画家達が移住し始めるんだ。それが芸術村としてのモンマルトルの始まりだ。
サクレクール寺院があるところでしょ。懐かしいな〜。
キミの思い出は置いといて、その後、この地に憧れてやって来たのがピカソやモディリアーニのような貧しい移民の画家たちだ。パリは世界中の芸術家志望がめざす街だったからね。彼らは当初「洗濯船」と言われる安アパートに住んでいたんだけど、ここにアポリネール、コクトー、マティスといった連中も住み始めて、若手の芸術活動の拠点になる。
ビンボーな漫画家が集まっていた「トキワ荘」みたいなものね。
キミも変なことには詳しいんだな。でも、当時のモンマルトルは開発が進んで観光地化してしまった上に、地元フランス人芸術家達が粋を競うのサロンみたいになっていて、ピカソみたいな新進気鋭の連中にとっては居心地が悪かった。そこで彼らはカルチェ・ラタンに通う学生達の住む街だった、対岸のモンパルナスに移住し始める。
学生の街ってことは、やっぱり家賃とかが安かったのかしら。
まぁ、そういうこと。それからモンパルナスは世界中の貧しい芸術家達が暮らす巣窟になる。かつてコクトーは言った。「モンパルナスでは貧困すら贅沢だ」。
「貧困すら贅沢」って、わかるようなわからないような…。でも、きっとその人たちには夢と情熱だけはあったんでしょうね。
そう。彼らは芸術家同士のコミューンを作って、国籍や年齢の分け隔て無く付き合った。集まった連中はざっとマルク・シャガール、モイーズ・キスリング、フェルナン・レジェ、シャイム・スーティン、マルセル・デュシャン、コンスタンティン・ブランクーシ、アンリ=ピエール・ロシェ、マックス・ジャコブ、アルベルト・ジャコメッティ、ヘンリー・ミラー、ジャン=ポール・サルトル、サルバドール・ダリ、サミュエル・ベケット、ジョアン・ミロ、アンドレ・ブルトン、藤田嗣治、高崎剛、ギヨーム・アポリネール、ジュール・パスキン、岡本太郎…。
ほとんど知らない。岡本太郎は知ってるけど。
(無視)そして彼らは夜な夜なカフェに居座って、芸術論を闘わせていたんだ。酒が入ると若さや満たされなさをぶつけあい、時には殴り合いのケンカもした。
ふ〜ん、モンパルナスってそういう所だったんだ。