アトリエ村の誕生
語り手:大江戸蔵三都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。
聞き手:豊島なぎさ都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。
歯ぎしりのユートピア
池袋に若い芸術家たちを呼び込む要素って何?
「アトリエ村」ですよ。要するにアトリエの付いた賃貸住宅ができたということ。
アトリエ付きって、今でも珍しいわよね。お洒落な感じ。
あはは。キミが想像したような立派な建物じゃないよ。15畳ぐらいの板張りのアトリエに小さな台所とトイレ、但し水道は無し。それに3〜4畳ほどの寝室が付いた程度の安普請だ(写真下)。資産家の未亡人だった奈良慶子という人が画学生の孫であった次雄と友人達のために建てたのが最初だと言われている。これが画学生達の間で評判になって、次第に増えていった。
場所はどのへん?
要町の駅からほど近い場所だけど、当時の住所表記は長崎町だった。2軒1棟で10棟ぐらいの規模だったようだね。ここには竹藪があって、雀がたくさんいたことから後に「すずめが丘アトリエ村」なんて呼ばれるようになった。
外観はどんな感じだったの?
すずめが丘に限らず、典型的なアトリエ住宅は赤いセメント瓦に木の壁。洋風の大きな窓と天窓が付いている(写真上)。和風と洋風をミックスした、いわゆる「文化住宅」のスタイルだね。でも、当時としては結構モダンな建物だったんじゃないかな。
家賃はいくらぐらい?
広さによって違うけど、13円から22円。相場の半値ぐらいだったらしいから、貧乏な画学生達にとっては最高の環境だったわけ。
それなら、入居希望者が殺到したでしょうね。
それで、長崎町界隈に土地を持ってた人たちが次々と似たような住宅を造るようになった。特に、渡米して成功し、資産家となった初見六蔵・こう夫妻が昭和11年(1936)から造り始めた「さくらが丘」「みどりが丘」「つつじが丘」といったアトリエ村が有名で、特に長崎2丁目の「さくらが丘」はパルテノンと呼ばれて、ちょっとした団地並みの規模だった。
パルテノンって、ローマのパルテノン神殿のこと? ちょっと大袈裟じゃない?
まぁ、そうなんだけど、何しろ第1ブロックから第3ブロックまであって、総戸数60っていうんだから、そんな大規模な芸術家コロニーというのは、世界でも類がなかった。
でも、入居したのは貧乏な学生ばっかりだったんでしょ。初見さんは賃貸で儲かったのかな?
1軒あたりの建設費が200〜400円だっていうから、仮に建築費が300円、家賃が15円だとすれば2年以内に元が取れる計算だ。決して悪い商売じゃないよ。でも、初見夫妻は若い芸術家達に理解のある人で、家賃を無理に取り立てたりしないで、親身になって学生達の世話を焼いていたらしい。
そうか〜。だとしたら学生にとっては天国よね。仲間もたくさんいるし。
池袋モンパルナスの最盛期は1930年代後半だけど、この時期には数百人を超える画家や彫刻家が住んでいたらしい。まさにパリのモンパルナスを彷彿とさせる賑わいだったと思うよ。
みんなそれぞれにアトリエを持っていたんでしょ。じゃあ、作品を見せ合ったり、批評し合ったりしたんでしょうね。
もちろん。かつてアトリエ村に暮らした野見山暁治さんが、池袋モンパルナスは「歯ぎしりのユートピア」だったとおっしゃっている。
えっ? 歯ぎしりって何のこと?
難しい顔で黙々と制作する者、芸術論を闘わせる者、雇ったモデルを交えてドンチャン騒ぎに興じる者、想像する苦しみも、貧しさや将来の不安もあるけど、どこまでも自由だ。「歯ぎしりのユートピア」とは、まさに言い得て妙だね。