若き芸術家たちの夢と挫折

闘う詩人・小熊秀雄〜その1

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:豊島なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

しゃべりまくれ!

ところで「池袋モンパルナス」って、誰が言い始めたの?


小熊秀雄だね。詩人で小説家、画家、漫画原作者と、多彩な顔を持っていた。小熊は池袋モンパルナスを代表する芸術家といっていいんじゃないかな。「池袋モンパルナスに夜が来た。学生、無頼漢、芸術家が街に出る」。

↑新聞社時代の小熊秀雄

小熊さんって結構ハンサムなのね。ビックリ。


小熊は明治34年(1901)年、北海道小樽市の生まれで、3歳のときに母親が他界、姉は養女に出された。高等小学校を卒業した後、養鶏場の番人など様々な職業を経て、大正11年(1922)から旭川新聞社の記者になった。詩を書き始めたのはこの頃からで、昭和3年(1928)年に上京、翌年から池袋に住み始めた。小熊が27歳の時だ。

27歳かぁ。青春真っ盛りって感じじゃない?


さっき話したプロフィルからもわかるように、なかなかの苦労人だ。貧困層や労働者の目線で生きてきた人だから、必然的に、当時生まれつつあったプロレタリア文学に傾倒していったんだ。昭和4年(1929)に小林多喜二が『蟹工船』、徳永直が『太陽のない街』を発表すると、社会主義や共産主義思想と結びついて大きなムーブメントになっていった。小熊もプロレタリア詩人会に入って、精力的に作品を発表するんだ。

その頃の日本ってどんな時代だったの?


日清、日露戦争の勝利で日本は列強の仲間入りをしたけど、その分、国政にも軍の影響が強くなっていった。そんな中で起こったのが大正元年(1912)の第一次護憲運動だ。日本の一般市民が自由と権利に目覚め始めた時代だな。これを大正デモクラシーという。

ああ、それなら歴史の授業で習ったわ。


しかし、第二次護憲運動を経て、やっと日本でも普通選挙が実現するんだけど、ソ連の誕生を契機に日本でもマルクス・レーニン主義が広がっていく。すると政府は国民による革命を恐れて言論弾圧に乗り出す。小熊がプロレタリア文学に傾倒していったのはそんな時代なんだ。

それじゃあ、政府に睨まれちゃうじゃない。


その通り。いつ逮捕されるか、或いは徴兵されるかわからないような状況だったはずだ。しかし小熊は黙ってはいなかった。そんな小熊の心情を書き殴ったような詩があるから、ここで紹介しよう。

しゃべり捲くれ

私は君に抗議しようというのではない、
ー私の詩が、おしゃべりだと
いうことに就いてだ。
私は、いま幸福なのだ
舌が廻るということが!
沈黙が卑屈の一種だということを
私は、よっく知っているし、
沈黙が、何の意見を
表明したことにも
ならない事も知っているから−。
私はしゃべる、
若い詩人よ、君もしゃべり捲くれ、
我々は、だまっているものを
どんどん黙殺して行進していい、
気取った詩人よ、
また見当ちがいの批評家よ、
私がおしゃべりなら
君はなんだー、
君は舌足らずではないか、
私は同じことを
二度繰り返すことを怖れる、
おしゃべりとは、それを二度三度
四度と繰り返すことを言うのだ、
私の詩は読者に何の強制する権利ももたない、
私は読者に素直に
うなずいて貰えばそれで、
私の詩の仕事の目的は終った、

私が誰のために調子づきー、
君が誰のために舌がもつれているのかー、
もし君がプロレタリア階級のために
舌がもつれているとすれば問題だ、
レーニンは、うまいことを云った
ー集会で、だまっている者、
それは意見のない者だと思え、と
誰も君の口を割ってまで
君に階級的な事柄を
しゃべって貰おうとするものはないだろう。
我々は、いま多忙なんだ
ー発言はありませんか
ーそれでは意見がないとみて
決議をいたします、だ
同志よ、この調子で仕事をすすめたらよい、
私は私の発言権の為に、しゃべる
読者よ、
薔薇は口をもたないから
匂いをもって君の鼻へ語る、
月は、口をもたないから
光をもって君の眼に語っている、 ところで詩人は何をもって語るべきか?
四人の女は、優に一人の男を
だまりこませる程に
仲間の力をもって、しゃべり捲くるものだ、
プロレタリア詩人よ、
我々は大いに、しゃべったらよい、
仲間の結束をもって
仲間の力をもって
敵を沈黙させるほどに
壮烈にー。

うわ〜、何か熱いわね。殺されても黙ってはいないぞって感じ。


こんな詩もある。「手を切られたら足で書かうさ 足を切られたら口で書かうさ 口をふさがれたら 尻の穴で歌はうよ」。こんな調子で小熊はモンパルナスの若い住人達を刺激し続けた。昼はパリのカフェならぬ喫茶店で。夜は泡盛を傾けながら…。

でもそんなに熱かったら、酔って喧嘩になったりしなかったの?


流血沙汰も多かったようだね。左の絵は小熊の描いた「ケンカ」という絵だ。中央で血を流して抱えられているのが小熊自身だ。

ひとりぼっちで生きてきたのに、誰彼構わず噛みついちゃうのね。今、ツイッターとかでつぶやいたら無視されるか、炎上しそう。

それが池袋モンパルナスの日常だったんだよ。日本の若者が反体制を掲げていたのは安保闘争までだろうな。ネット上の無責任で排他的な議論とは違う、もっと熱い生身の人間同士の議論があったんだよ。幸せな時代じゃないか。

確かに、フェイスブックなんかやってても「何食べた」とか「ウチの犬カワイイでしょ」とか、どうでもいい話題ばっかり。議論なんか全然ないもんね。でも、小熊さんみたいな、あんまり熱過ぎる議論も勘弁して欲しいけど…。

ただし、それは小熊の一面に過ぎないんだ。「闘う詩人」とは全く違う一面も持っていた。次回はそれを紹介しよう。

ページトップへ戻る